三田尻御舟倉跡 三田尻3丁目 防府市 山口県

三田尻御舟倉は、当所は海に面して設置されていましたが、江戸時代中期以降、防府の南部で広く干拓が進められたなかで、安永5年(1776)に御舟倉の南側から東側にかけての勝間開作により、御舟倉は陸地に囲まれる形となりました。明治以降に建物の解体や塀の埋め立てが進み、御舟倉の往時の姿をとどめるのは一部のみとなりましたが、周辺地域には御舟倉、また文久3年(1863)この地に設置された海軍局に由来する地名が現在も残っています。  平成23年8月  山口県教育委員会  防府市教育委員会
関ケ原の戦(1600)後、周防・長門の二か国に封じ込められた毛利輝元は、参勤交代や海戦、平時の海運に備えた藩の水軍の本拠地である御舟倉を、現在の下松市に設けました。しかし、萩城との交通の便や地形などを考慮し、慶長16年(1611)三田尻に移しました。城下町萩と瀬戸内海の港三田尻を結ぶ「萩往還」の終点である三田尻御茶屋(英雲荘)からおよそ500mの位置にあります。江戸時代中ごろまでの参勤交代はここから船出していたのです。 御舟倉には、藩主の御座船や軍船が常置されただけでなく、船の建造や修理が出来る設備も整えていました。また、周辺には水軍の将校や船頭・船大工など関係者の住宅地の町割りが計画的になされ三田尻は藩主出入りの表玄関にふさわしい軍港・商業港として発展していました。 しかし、元禄元年(1688)以降、御舟倉周辺の開作(干拓)が次々に完成すると、次第に陸地に囲まれ、一本の水路が海に通じる唯一のものとなりました。 明治維新後、御舟倉は廃止となり、現在では大部分が埋め立てられ、通堀(かよいぼり)とこれに通じる水路の一部にその名残をとどめています。 平成11年2月  山□県教育委員会 防府市教育委員会