旧玖波宿家並 玖波3丁目 大竹市 広島県
 近世における玖波の歴史は宿場町としての歩みでもあった。江戸を中心とした5街道に次ぐ脇街道の一つである西国街道(大坂〜下関)は町内を23丁30間(2.6km)にわたって貫いていた。寛永12年(1635)に参勤交代の制度が確立されると、玖波は宿場町としての重要性を増し、本陣は幕吏や西国大名の参勤・下向並びに幕府賓客の宿泊や休息にあてられる新たな使命を帯びた。駅所である本陣は寛永9年(1632)以降、本陣役新屋(平田)半左衛門宅の整備普請というかたちですすめられた。その規模は、いまに残る天保13年(1842)刻成の「玖波駅御本陣間取之図」(左図)によれば間口21間(38m)、奥行16間(29m)からなる約340坪の敷地に、平田家居宅の8室に加えて本陣用の7室を合わせた115坪の建物が建てられていた。駅には伝馬、駕龍などが常備され、それらの手配をはじめ一切の駅務は近村の村役人が当たり、人馬見届頭取役、添役としてもろもろの要請に応じ、交通の要衝としての中枢的機能を果たしたが、慶応2年(1866)の長州の役により多くの人家とともに本陣のすべてが焼け落ち、いまでは往古の面影をしのぶことさえできない。以下略   大竹市教育委員会