和久原川・水刎跡 舘町1丁目 三原市 広島県
川岸から川中へ石垣を築き出し、川の流れを弱める役と、流れの方向を変えて、三原城の「東築出」の用地を確保するために造られた石積と考えられます。 流水の強く当たる所の大石には、それぞれに穴を開け、鉄棒を通して連結してあるそうです。この様な特技を持った三原石工は、愛媛県の宇和島に呼ばれ、その土地の干拓工事に手腕を発揮しましたが、その優れた技術の故に、かえって妬まれ、非業の最後を遂けました。これを哀れみ、その供養の盆踊りが彼の地に残っている由。「白松克太著三原昔話」 現在水刎は和久原川西岸の東大橋の川上に一ケ所、川下に五ケ所、上流の清水橋の川下にも二ケ所残っております。三原志稿には延宝8年(1680)水刎、塵除を設けるとの記事が見えますが、これは河原谷川の事かとも解されます。尚 三次市の浅野堤にも刎が造られていました。