脇本陣(高草家住宅) 矢掛 矢掛町 小田郡 岡山県
高草家の祖は因幡国(鳥取県)の守護山名氏と伝えられており、戦国時代に同国高草郡鹿野城から戦乱を逃れて矢掛の七日市に住したのがはじまりとされている。屋号を東平田屋といい、宝屠8年(1758)に現在地に居を構え、代々金融業を営んで、財をなした。寛政10年頃から庭瀬藩の掛屋(会計方)を務め、さらに文化2年頃より藩の札場元方(札元)として藩札の発行にあたると共に、文化13年から20年間にわたって矢掛村庄屋を務めた。天保6年には小田郡の大庄屋となり、「大高草」とよぱれた旧家である。 屋敷地は約600坪(約2000u)で、本陣に次ぐ規模である。現在の屋敷は当所の敷地を漸次左右に買い増し敷地の増大と共に家屋を建て増したものである。間口17間(約33m)で、街道に面して東から松陰楼(蔵屋敷)、表門(薬医門)、表屋、家老門とならび、表門は旧庭瀬藩の矢掛陣屋(矢掛町西三成)の門を明治6年に移築したものである。表屋、主屋は天保14年(1843)から弘化2年(1845)にかけて建て替えられた入母屋造本瓦葺の大きな建物で、前半を店部分とし、後半を住宅として使用していた。間取りは中央部分に通り土間を設け、左右に部屋を配している。とくに表屋の南面格子は格調高い美しさをかもして出している。敷地内の他、内倉、大倉、中倉、門倉、来倉、供部屋が建ち並び、周囲は塀、長塀で囲まれている。建物の意匠は全体に明るく落ち着きがあり、備中南部の民家の持色がみられ、山陽道における脇本陣の屋敷構えの全貌を伝えるうえできわめて貴重といわれている。 昭44年6月20日付けで各建物が重要文化財に指定された。 矢掛町教育委員会