妙興寺 長船町福岡 瀬戸内市 岡山県
宇喜多直家公の父 宇喜多興家(おきいえ)公の墓
宇喜多能家(砥石城主)は、天文3年(1534)、同じ浦上家の重臣である島村豊後守(高取山城主)の奇襲を受けて城を枕に自害した。子の興家は、当時6歳の八郎(後の直家)を連れて備後の鞆へ落ちのびたが、ほとぼりのさめたころ備前福岡に戻り豪商阿部善定のもとに身を寄せた。興家は、やがて善定の娘との問に二児(後の忠家・春家)をもうけたが、不遇のうちに天文5年(1536)この地で病死した。法名を露月光珍という。八郎は、阿部善定や尼となっていた叔母(下笠加大楽院)の保護のもとに、少年時代をこの地で過した。 平成16年7月  備前福岡史跡保存会
黒田氏と備前福岡(黒田墓所)
 黒田氏の祖宗清は、近江国伊香郡黒田村に住していた。宗清五世の孫高政は、永正8年(1511)子重隆らを連れてここ福岡に移住し、十数年を過ごしているが、この間は黒田家にとり最も不遇な時代であった。高政は大永3年(1522)にこの地で亡くなったが、その翌年重隆には嫡子職隆が誕生している。多感な青少年時代を山陽道随一の繁栄を誇っていたここ福岡で過ごし見聞きした多くのことは、その後の黒田家処世の知恵となったと思われる。 重隆は大永5年(1525)家族を連れ播州に移住。その後、御着城主小寺氏に仕官した重隆はその器量を認められ播州姫路城を預かっている。職隆そして姫路城で生れた子の官兵衛孝高と相次いで姫路城主となっているが、この播州時代にその後の黒田家発展の基礎づくりができた。官兵衛孝高の長男長政は、徳川家康に味方して勝利し、筑前52万石に封ぜられ城を築いて福岡城と命名した。これは、父祖の生活の地で墓もある備前福岡を偲んで、この地名を用いたという。この黒田墓所には現在も各地から多くの参詣者がある。 平成21年9月建立  備前福岡史跡保存会  教意山妙興寺  長船町観光協会