9世紀の初め頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた征夷大将軍坂上田村麻呂は、この地方にはびこる悪路王や青頭・赤頭など鬼形の者たちに、苦しめられている村人たちのことを知った。そこで、田村麻呂は斎が川で身を清め、鈴鹿明神の助力を得て悪者を退治した。村人はその徳を慕って、祀ったのが田村神社のはじまりと伝えている。この湖畔は、この時の田村将軍の乗馬が沼に落ちて死んだことから馬入沼ともいい、また、沼の中の弧洲が馬に似ているため馬形沼と、さらに、馬首牛身の魚獣が泳ぎ回っていたので馬牛沼と呼ばれたとの伝承がある。 この沼は明治30年頃から養鯉場になり、晩秋には名物の「沼乾し」の行事で賑わい、湖中には鯉供養碑が建っている。湖沼の北側の山は馬牛館跡で、伊達稙宗・晴宗父子争乱の天文年中(1542〜48)には、桑折播磨景長が篭って戦ったとの伝承がある。 その館下の道は、遠く源義経が鐙を摺ったといわれ鐙摺石(あぶみすりいし)の難所であり、奥州街道最大の難所であった。 |