義経の腰掛松 藤田 国見町 伊達郡
(前略)「義経の腰掛松」の由来は、この途中路傍に生えていた、小松の枝に腰を掛け、休息をとったことが、松名の起こりといわれる。また初代の松は三本の太幹から、四方に繁茂する枝振りが、笠を伏せた姿に似ていたため、別名笠松ともいわれた。 初代の腰掛松は幕末重職の中川忠英や大野文泉ら江戸の風人墨客達によって、近江国(現滋賀県)の唐崎の松、摂津国(現大阪府)の曽根崎天神の松とともに、「天下の三名松」として喧伝され名声を博したという。松樹の東側には寛政12年81800)に江戸の文人、髄古堂素閑によって書かれた、「義経の腰掛松」の碑が立てられている。
 しかし文政4年(1823)修験者が、この松に巣を作った蜂退治のために、焚き火をしたところ松に燃え移り、あたら名松を枯らしてしまった。村人はこれを惜しみ、同6年信夫郡上名倉村(現福島市)の医師須貝才右衛門から、姿が笠松によく似た赤松を譲り受け、川船に積んで荒川から阿武隈川を下り、徳江河岸より陸揚げされて運ばれ、移し植えられたのが現在の二代目である。焼けた初代の松株には、柵を巡らし屋根を葺き、義経神社が祀られている。しかし、二代目の松も近年、松食虫の被害を受けて、三本の太幹の内二本は枯死して伐採され、かろうじて一本が、残されているのみである。  平成17年4月   国見町教育委員会