藤田城跡は山崎字南古館・北古館、通称「源宗山」に位置する中世の城館跡である。現在は中心部が東西約180m、南北160mの略方形を呈する広大な平場で、西辺と南辺の一部に土塁跡、北西隅に枡形虎口を残しているが明治期の地籍図によれば城跡中央部に方形の区画があり、本来は複郭式の城跡であったと考えられる。 伝えに寄れば、文治5年(1189)阿津賀志山の戦いの折、源頼朝が鎌倉軍の本営をここに置き、阿津賀志山の奥州藤原軍の陣を攻める指揮をとり、それが源宗山の地名の起こりになったといわれている。 下って南北朝の時代には、藤田城は霊山城の支城として南朝軍の拠点となっており、貞和3年(1347)奥州管領吉良貞家の率いる奥州の北朝軍を総動員した軍勢の攻撃を受け、激戦の末落城している。この時期の城主は不明であるが、伊達行朝か藤田下野守と推定される。 室町時代には伊達氏の家臣、藤田氏の居城であったと考えられるが、本宗家は一時断絶している。戦国時代の天文年間(1532〜1555)に藤田氏は再興されたが、奥州守護伊達稙宗と嫡子晴宗が争った天文の乱で稙宗方につき、敗れた藤田晴親は相馬に逃亡したため藤田氏は再び断絶することになる。この時点で藤田城は廃城になったと思われる。  現在見られる城の遺構はその形態・構造から、天文の乱の時期のものと考えられる。  平成12年2月   国見町教育委員会
 藤田城跡 藤田 国見町 伊達郡