藤原朝宗は、藤原氏魚名(いおな)流に属し、中納言山陰の後裔で、母は源頼朝の伯母であった。彼は、常陸国新治郡伊佐荘の荘司であったが、若い頃には都に上がり、高松女院に仕えたこともある。文治5年(1189)、出家して念西と称していた朝宗は、頼朝の奥州征戦に息子たちと共に参加し、信夫郡石那坂の戦いで大鳥城主の藤原(佐藤家)基治の軍を撃破し、平泉勢の総崩れの原因を作った。 軍功によって伊達(いたて)郡を賜ったので、彼は次男の宗村と共に伊達郡に来住し、高館に城を構えたが、宗村は、家名を伊達(いたて)と称した。 朝宗は、正治元年(1199)、72歳で没している。その娘の大進局(だいしんのつぼね)は頼朝の寵を蒙り、貞暁僧都の母となった。文政4年(1821)、伊達家は五輪の石塔を墓前に造立し、朝宗を供養した。江戸時代には、参勤交代の途次、仙台候はここに墓参するのを例としていた。 伊達は、江戸時代の中頃からダテと訓まれるようになった。なお、有名な仙台・青葉城主の伊達中納言藤原正宗(1567〜1636)は、朝宗から数えて17代目である。  昭和58年3月   桑折町教育委員会
伊達家の始祖 藤原朝宗の墓 桑折町 伊達郡