福源寺・義民斎藤彦内の墓 伊達町字下志和田
義民斉藤彦内
寛延2年(1749)、「田方立毛青立」と記録されたほどの大凶作となった。領内の農民たちは、再三にわたり年貢の減免を当時の桑折代官所に願い出たが、非情にも逆に増税を命ぜられた。寛延2年9月、増税の不当を述べると共に、17日宮代村山王社に参集し、対策を協議するという内容を、誰が発したかわからない「わらだ廻状」を信達68ヵ村に廻した。後に、伝達の早いことから「天狗廻状」とよばれた。この密議で、長倉村組頭斉藤彦内、鎌田村猪狩源七、伊達崎村蓬田半左衛門等が選出され、再度年貢減免の嘆願を行ったが聞き入れられず、12月11日、1万6千8百余名の農民を糾合して大一揆の陣をはり、強訴を挙行した。免租の目的は達したが、一揆後多数の農民は捕らえられ、拷問にかけられた。彦内は罪を一身に引き受けて自首し、源七・半左衛門と共に翌年4月17日、産ヶ沢の刑場において斬首され、さらし首の刑に処せられた。彦内行年42歳であった。   伊達町教育委員会