江戸時代、奥州街道の道標として町の境界や分岐点におかれていたもので、中町では八幡様(安積国造神社)の表参道の正面に当たる場所に立てられていた。当初は木の道標で江戸や会津までの距離が書かれていたようである。(中略)この元標は、今日でも秋祭りの際の神輿の宮入りの基点となっている。 | <皿沼水道>江戸時代、宿場町として大きく成長した郡山は、水田灌漑用の”皿沼”(現在の商工会議所)の水を代官所に願い出て、飲用・雑用・防火用として利用した。<山水道>皿沼の水は、その後まちの人口増加の需要に応じきれず、明和年間(1760年代ころ)、上町・下町の商家は個人や共同で現在の清水台・虎丸一帯の清らかな湧水の地に井戸を掘り「山水道」を引いた。山水道は地下を木管・竹管でつなぎ、長く数千メートルにも及んだ。 |