鎌倉時代、官道だった東山道の路傍に建てられたこの供養塔群は、双式阿弥陀三尊来迎浮彫供養塔など四基の板碑からなる。この時代は戦乱と飢餓に明け暮れたので、人々は現世に絶望し、阿弥陀仏の来迎供養塔を建てて、死者の供養とともに自らの死後の安楽を祈った。この付近の東山道は近世の時代になって奥州街道となったが、明治時代になって東を流れる阿武隈川沿いに付け替えられたため交通閑散となった。この供養塔群は柏城小学校前にあったが学校建設と道路改修のため現在地に移された。筑後塚の名のいわれは、中世末、須賀川城が二階堂氏の家臣守谷筑後守の内応によって伊達政宗に攻め落とされた。戦いの後守谷は主君を裏切ったxxx切腹したとxxx
   平成7年xx    須賀川市教育委員会
筑後塚供養塔群 字東町 大字滑川 須賀川市 福島