大蔵ヶ崎城跡 喜連川 栃木
この辺りが大蔵ヶ崎城の城址である。大蔵ヶ崎城(喜連川城)は荒川と内川に挟まれた、しかも両側が急傾斜になっている喜連川丘陵突端の要害を巧みに利用した中世の代表的な連郭式の山城である。塩谷惟広は源義家の孫、頼純を祖とし、源平合戦(1185)に源義経の軍に従って出陣、一の谷及び屋島の戦に功を立てたので源頼朝から塩谷の里3千町を領地として与えられ、文治2年(1186)ここに大蔵ヶ崎城を築いたのである。(中略)天正18年(1590)豊臣秀吉が、関東の大勢力、小田原の北条氏を滅ぼし、実質上全国を平定したとき、関東、東北の諸大名等は相次いで秀吉に従順を誓ったが、ときの城主塩谷惟久はその機を失ったため、秀吉の怒りをおそれて出奔した。従って、およそ400年続いた喜連川塩谷氏も17代惟久で終わり、大蔵ヶ崎城は、喜連川足利氏の所管となった。(後略)