早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭堡を確保する上で最も重要な課題であった。このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文18年(1549)の戦いは、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万腔の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示している。
早乙女坂古戦場の跡 喜連川 栃木