遠い昔には、勝山の城地の一隅にまつられてあったといわれる。いつの頃か洪水により稲荷神社の少祠は流され、三本杉(現河内町・白沢)の根本に留まり、そこにしばらくまつられてあった。嘉永3年(1850)に上阿久津村と下ヶ橋村との間に地域論争が起きたが、これを契機として故あって東円寺裏に御神体をまつったという。村人や奥州街道を旅する者、鬼怒川に船を操る船人たちがこの稲荷を詣でるようになると、様々な霊験が現れ、奇瑞が起こったといわれ、爆発的な稲荷信仰が起きた。寺の裏の片隅にあった小社には、信者の奉加によって本殿や拝殿と社地が造営され、たくさんの鳥居が奉納された。門前には稲荷町ができて、参詣者の飲食遊興の場となった。しかし、河岸の衰退とともに、霊験談も消え、境内のにぎわいも遠い昔の物語となってしまった。
与作稲荷神社 氏家 栃木