宝江渡跡 川原屋敷 北方町北方 一宮市 愛知県 
宝江渡し跡
慶長5年(1600)8月、関ケ原の合戦の前、岐阜城攻めの際、東軍の先鋒池田輝政は一万八千の軍勢を率いてこの地に到着。木曽川の川越え遅々として進まず、北方の人高橋源左衛門・広瀬嘉右衛門の機転により滞留なく渡河し、両名は、その功により御船渡守として、船頭給、二十八石五斗の恩賞を受ける。次いで、同12年、徳川義直尾張藩主のとき、岐阜街道を改修しこの地から対岸への渡船を官道とした。代々の高橋、広瀬の両名が渡しを守った。明治11年(1878)10月25日、明治天皇御巡幸の際、両名私費をなげうって船橋を架したが、翌年流失し、鉄橋架設に至るまで渡船を継続した。平成7年1月 一宮北ライオンズクラブ