天宥社 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
羽黒山50世執行、別当天宥法印を祀ったお社である。天宥法印は羽黒山中興の祖と仰がれ、今日お山繁栄の基を築かれました。当時、お山は戦国争乱の影響を受け衰微し、各登拝□は独立の様相を呈し威令行われざる時代に25才の若き身にて羽黒山別当の重職に就かれた天宥は当時黒衣の宰相と云われた上野竟永寺天海僧上に師事し宗政を匡し、壇那場、霞場の布教制度を確立し一山の改革を図った、又参道に石磴を敷き植林を奨励し田畑を興し、祓川の懸崖に瀧を落し、山内堂塔の造替移築を計る等お山の威厳を整え、又絵画、彫刻、造園の術にも非凡なる才能を発揮し御神威の発揚に挺身せられた。 然るに晩年反対派の讒に邁ひ新島に流配の身となり在島7年82才で入寂された数奇な運命を仙つた人である。
歿后15年元禄2年芭蕉奥の細道行脚の折り留杖、天宥法印の遺徳を偲び追悼文を寄せられ、その末尾に「其玉や羽黒にかへす法の月」と詠まれている。 天宥の偉大なる功績は多くの人々に敬慕され御霊社にまつられ慰霊祭が執り行われて来たが明治の御代になり神として祀られることになった。この社殿は御開山1400年の記念事業として造営され、平成4年秋竣功されたものである。例祭日は10月24日(遷化の日)と定められ縁故の人々多数参列の下に斎行される。