鶴ケ岡城は古くは大宝寺城とよばれ鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城であった。 ●天文年間(1533年頃)兵火のため武藤氏は大山の尾浦城に居を移し当城はその枝城となった。 ●天正15年(1587年)武藤氏が滅び庄内は越後の上杉氏次いで慶長6年山形の最上義光の支配するところとなる。 ●慶長8年(1603年)大宝寺城は義光の隠居城として修覆され鶴ケ岡城と改称する。 ●元和8年(1622年)最上氏が領地没収となり、その後信州松代より酒井忠勝が入国、庄内14万石(幕末17万石)の居城として整備拡充された。 ●酒井氏は徳川幕府の譜代大名として明治4年まで約250年間庄内を治める。戊辰戦争において新政府軍と戦い降伏。 ●明治8年(1875年)鶴ケ岡城解体。本丸、ニの丸が公園となり本丸跡に荘内神社が建てられた。 ●今では公園のお堀と土塁、お城稲荷の森に、僅かに当時の面影が偲ばれるにすぎない。 |