鎌倉第3代の征夷大将軍、右大臣源実朝は承久元年正月(1219)拝賀亜の礼を鶴岡八幡宮に行い帰途公暁に殺され28歳にして劇的な死を遂げる。後世の人々は将軍右大臣実朝としてよりも、悲劇の歌人実朝として不朽の名を称える。実朝は14歳のときより歌を詠み万葉集、古今集、新古今集を愛読した。特に万葉集は重宝として賞翫した。(中略)実朝の歌は各種の歌集にのせてあるが『金塊和歌集』は実朝の歌集として名がある。この歌集に「霰」と題して 「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」が入集している。これは歌枕「那須の篠原」を詠んだ歌で、万葉調でしかも実朝の歌境がよく表現されている。賀茂真淵も「人麻呂のよめらん勢ひなり」と称えている。  芭蕉の里  黒羽町 ここは、お稲荷さんと称える作神さまと玉藻の前(九尾の狐)の神霊とを祭った由緒深い社である。宝前の社殿改建記念碑と石の鳥居の柱にいわれなどが記してある。建久四年(1193)源頼朝が那須遊猟のときこの社に参詣したという伝えがある。また元禄2年4月12日(陽暦5月30日1689)松尾芭蕉はこの篠原の地を訪れている。「奥の細道」に「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物を一見し那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ」とある。境内に芭蕉の句碑「秣おふ・・」と源実朝の歌碑「武士の矢並みつくろふ・・・」がある。また九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」と「狐塚」の霊を移したという祠がある。なお「狐塚址」は、ここより北東の地の建道沿いにある。  芭蕉の里  黒羽町

秣(まぐさ)負う人を枝折の夏野哉
篠原玉藻稲荷神社 黒羽町 那須郡 栃木県