鹿子畑翠桃亭跡と墓地 余瀬 黒羽
「奥の細道」行脚の途次、芭蕉は余瀬に住む門弟の鹿子畑翠桃(豊明28歳)を尋ねた。時に元禄2年4月3日(陽暦5月21日1689)であった。翁の黒羽滞在13泊14日の中で、兄浄法寺桃雪(高勝29歳城代家老、廓内に住む)方と、弟翠桃方に交互に泊まり、その間郊外を逍遥しては、暦史・伝説の地を訪い、寺社に詣でまた歌仙も興行した。
那須余瀬 翠桃を尋て
秣(まぐさ)おふ人を枝折の夏野哉  芭蕉
青き覆盆子(いちご)こぼす椎の葉  翠桃
鹿子畑氏はもと大田原氏に属した。鹿子畑能登の代に、高増が大田原氏から出て大関氏を継ぐに際し、能登は少年高増の後見人として来たり、白旗城下の余瀬に居を構え子孫に伝えた。後の代に黒羽堀之内に移住し、翠桃の邸宅跡は土塁が周り、土手の内と称された。現在は水田と化し、この北隣に墓地のみが残る。以下略    芭蕉の里   黒羽町