松尾芭蕉は、元禄2年4月9日(陽暦5月27日1689年)に光明寺へ招かれ、昼より夜5ツ過(午後9時過)迄で浄法寺図書宅へ帰った。『奥の細道』に「修験光明時と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。 夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉」とある。これは光明寺の行者堂に安置されていた役の行者小角の像を拝し芭蕉がこれからの長途の安全を祈り、その健脚にあやかろうとして詠んだものであろう。伝えには那須与一宗隆が屋島に出陣する際、山城国伏見の光明山即成院の弥陀仏に武運長久を祈願して遂に扇の的を射て武名を輝かせることができたという。与一は帰国後文治2年(1186)余瀬村のこの地に弥陀仏を勧請して、即成山光明寺を建立したという。その後久しく廃絶していたが、永正年間鳥山城主那須資実が、近江の大津に住んでいた天台宗の僧無室を招聘し光明寺を再興して修験道に改め、無室は津田源弘と称した。芭蕉が招かれた当時は第7代津田源光権大僧都で、妻は鹿子畑佐内の娘なので翠桃が口添えをしたのであろう。 芭蕉の里   黒羽町
修験光明寺跡 黒羽