俳聖松尾芭蕉が門人曾良を伴い「奥の細道」の旅に出たのは元禄2年3月27日の早朝であった。曾良の随行記によると三日目の3月29日の夕刻早くも鹿沼に到着している。随行記には「鹿沼に泊まる」とあるだけで宿舎名は記載されていないが、口碑伝承によると同夜は鹿沼の西の寺といわれた曹洞禅寺の光太寺(当寺)で一夜を過ごしたと伝えられている。明ければ4月1日(旧暦では3月29日が晦日である)いまなら5月上旬に当るが、前夜から小雨が降り続いていた。江戸から所持した、古編み笠の雨もりを危ぶんだ芭蕉は寺で新しい笠に替え、日光へ向ったのである。「鐘つかぬ里は何をか春の暮」「入相の鐘も聞こえず春の暮」(当時光太寺は無住)の句は、光太寺の作品であるというがそれから5年後の元禄7年10月12日芭蕉は旅先の大阪で病み51歳の生涯を閉じたのである。やがて時を経て「芭蕉死す」のうわさを耳にした寺では供養のため思い出の笠をとり出して建てたのがこの笠塚であった。笠塚についての記録はおしくも寺の火事で失われたがしかし、元文3年(1738)芭蕉が死んでから44年しかたたないころ江戸の俳人山崎北華は「続奥の細道」といわれる紀行文「蝶の遊」の中で光太寺の笠塚に詣で「我もこの影に居るなり花の笠」の句を作ったことを述べ、史跡としての笠塚の存在を証明した。笠塚はいまも保存されているが「芭蕉居士 嵐雪居士」の文字が刻んである大きな碑は後代のもので、その後方所ににある自然石の碑が塚を築いたころ建てられたものといわれている。 昭和56年3月 鹿沼市文化財専門調査委員 川上茂雄 |