この塔は五輪の塔で鎌倉時代の様式であり、この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。同じ様式の塔が数多く建立されたものと思われ、ここより約1km北にある国分寺(下野国分寺跡とは別)薬師堂のそばにもあります。はじめ姿川沿いにありましたが、明治初期にここに移されました。この付近は「紫」という地名であることから、源氏物語の作者である紫式部の墓と、言われるようになったと思われます。 環境庁・栃木県
紫式部の墓 しもつけ風土記の丘 国分寺町