元和3年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、21の宿場が設けられました。宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。間々田宿は、翌年には宿駅に指定され、江戸および日光から、それぞれ11番目の宿場にあたり、距離もほぼ18里(約72km)の中間点に位置していました。天保14年(1843)、間々田宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が50軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。また、中田宿から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、一里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例弊使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。この榎は、いつの頃からか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。
日光街道中間点 逢の榎 間々田