一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。 文化年間(1804〜1818)幕府が編纂した『五街道分間延絵図』には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分る。現在は、高さは2m、東西幅5.7m、南北幅7.8mの東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ2.5mのケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。 多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、『蒲生の一里塚』は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。   昭和61年10月    埼玉県教育委員会   越谷市教育委員会   植竹誠一郎 
蒲生一里塚(埼玉県指定史跡) 蒲生 越谷