綾瀬川通り蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃とみられている。当時綾瀬川の水運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝8年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに江戸へ直送できたからで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。 明治に入り政府は河川や用悪水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、とくに中川通りは寄洲の推積で大型船の運航は不可能になり、中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。この中で陸羽道中(旧日光道中)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、大正2年(1913)には資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。その出荷高は、舟の大半を大正12年の関東大震災で失うまでは、年間1万8千駄、着荷は2万駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用された。 なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助18代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである。  平成5年   越谷市教育委員会
藤助河岸跡 蒲生愛宕町 越谷