疋田から小屋川に通ずる川幅9尺(約2.8m)の舟で、文化13年(1816)3月に起工し、7月に竣工したが、天保5年には馬借座の訴願で廃止された。現在地を流れるこの疏水は、舟川遺構を「水と史の回廊」として整備改修したものである。琵琶湖の北より深坂山を開削して、敦賀へ疏水を通す企画は古くからあり、平清盛の命で重盛が着工した跡が深坂峠に残ると伝えられている。近世初頭敦賀郡を領した大谷吉継も計画を立て、また河村瑞軒も試みたという。京都の商人田中四郎左衝門は、寛文9年(1669)琵琶湖疏水計画の書類・絵図を敦賀町奉行所に提出し、元禄9年(1696)にもまた企画するが、郡内19ケ村の庄屋の反対にあって、この計画は中止された。その後、日本海沿岸への異国舶の出没に対し京都の糧道確保のため、文化13年に琵琶湖疏水計画が幕府・藩の手によって具体化し、翌年3月、小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として、先ず小屋川と疋田間の舟川工事が開始され、4カ月後に完成を見た。文化14年8月、川舟数艘に米23俵を搭載し、舟引60人で試運転を行った。上り荷は米・海産物、下り荷は茶などで、疋田よりは牛車にて近江大浦へ輸送された。なお、安政4年(1857)4月、幕府・小浜藩によって天保5年に廃止された舟川が堀り起こされ、12月再開通された。土橋より下は笙ノ川筋に出て、河□の今橋の下には荷物取級所が置かれた。この舟川も慶応2年(1866)5月、大洪水で破壊された。寛文期(1661〜72)以降、河村端軒による日本海から大坂直航の「西廻り航路」の開発で受けた敦賀港の打撃は、このように琵琶湖・敦賀間の運河計画が部分開通に終わったため、回復には至らなかった。1985年12月 気比史学会・敦賀みなとライオンズクラブ (2001年3月改修  福井県)

舟川の胴木
現在の川幅は、沿道の拡幅によって左岸が狭まり約1.5mになっているが、もとは9尺(約2.8m)であった。右岸の石組は、当時に近い状態に整備したものである。疋田付近では、急流のために水位が上がらず、積荷を満載すると船底がつかえるので、川底に胴木を敷設して、舟の上りを滑らかにする工夫がなされた。また、ここでの川舟は、川沿いの道路から、棕櫚縄で幾人もの人夫によって曳き上げられていった。 1985年12月 敦賀みなとライオンズクラブ

敦賀運河(疋田舟川)跡 疋田 敦賀市 福井県