織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に大溝城が築かれた。この城は、びわ湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承されている。 そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正6年(1578)2月3日その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄に宛行い大溝城主とした。 城主に入った信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。 ところが、天正10年6月2日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、6月5日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を、大阪城内二の丸干貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。 大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和5年(1619)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏に引きつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た。 この大溝城本丸跡は、平成8年3月高島町指定文化財となった。 平成8年3月  高島町教育委員会
 大溝城跡 勝野 高島市 滋賀県