大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思はざらむ
高島の地は、古くから大和と北陸地方を結ぶ北陸道(西近江路)と若狭路との分岐点にあって、水陸交通の要衝であったため「三尾駅・勝野津」がそれぞれ置かれていた。旅人の往来の多かったこの地は、古来より歌枕として数多くの歌を残している。今からおよそ1300年前の万葉の時代、三尾崎(明神崎)の北側のこのあたり一帯は、琵琶湖が山麓に向かって深く湾入し、大きな入江をつくっていた。現在は内湖となり「乙女ヶ池」と呼ばれている。歌に詠まれている「香取の海」は、この内湖の地を指したもので、香取海(浦)の北端に「勝野津」の港があったものと思われる。 前方に見える山は「三尾山」といい、「壬申の乱」(672年)の戦場となった所で山中にあった「三尾城」の遺構は現在のところ確認されていない。また、「恵美押勝の乱」(764年)には、藤原仲麻呂とその妻子、郎党がこの「勝野の鬼江」で斬罪されている。「鬼江」とはこの「香取の海」の湖辺を指しているものと推定される。
 万葉歌碑(乙女ヶ池) 勝野 高島市 滋賀県