思いつつ来れど来かねて水尾が崎 真長の浦をまだかへり見つ 「万葉集」巻9−1733
作者が北陸から都に帰る船旅の徒次に、真長の浦の風光に心をひかれて詠んだ歌であるが、また北陸へ下向の時、勝野の里で知り合った人のことが思い出され、水尾が崎を回りかねている心情を詠んだ歌ともとれる。水尾が崎は「三尾崎」とも書き、今の明神崎のことである。真長の浦は、勝野津から鴨川崎にかけての浦廻を指している。 水尾が崎の付近は昔も今も地形は変わっていない。この辺りは「恵美押勝の乱」(764年)の戦場となった地で、続日本紀の一節に「高島郡の三尾崎」の名が出ている。押勝(藤原仲麻呂)は、この近くの「勝野の鬼江」の浜で官軍に捕らえられ妻子郎党と共に斬罪された。歌碑の前を通る山沿いの古道が、北陸道(旧西近江路)で往時の面影を今に残している。
万葉歌碑 鵜川 高島市 滋賀県