壬生城は室町時代のなかぱ、文明年間(1469〜86)に壬生綱重によって築かれたといわれています。各地の大名か勢力を競っていた戦国の世にあって、約100年もの間、壬生氏の主要な城となっていました。 しかし、壬生氏は小田原城の北条氏に味方していたために、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条氏とともに亡びました。 慶長6年(1601)からの110年間は、日根野氏(1万石)・阿部氏(2万5千石)・三浦氏(2万石)・松平氏(4万2千石)・加藤氏(2万5千石)というようにたびたび城主が替りました。そして、正徳2年(1712)鳥居忠英が近江国水口から移ってからは、明治維新を迎えるまでの約160年間、鳥居氏(3万石)が代々城主となりました。 江戸時代の記録によると、壬生城は本丸・ニの丸・三の丸・東郭・下台郭・正念寺郭の六つの郭からなり、これらの郭は土塁と堀で囲まれていました。また天守や櫓といった建物は建てられていませんでした。本丸は約140m四方の大きさで、南と北に門があり、土塁の上には塀かめぐっていました。 また、本丸内部には御殿があり、江戸時代の初めには将軍の日光社参の宿舎と して使われました。 現在、本丸址もその南側を残すのみとなりましたが平成元年に城址公園として整備され、県内に残る数少ない近世城郭の一つとなっています。平成2年3月 壬生町教育委員会
榜示杭は江戸時代に領地の境界のしるしとして立てられた石や木の柱のことです。左側の榜示杭には  (正面) 「従是南 壬生領」 (側面) 「下野国 都賀郡 家中村」 と刻まれており、家中村(現在の都賀町家中)に立てられ、家中村から南が壬生領であることをしめしたものです。天保14年(1843)に幕府によってまとめられた『壬生通宿村大概帳』によると、壬生宿には上稲葉村(壬生町上稲葉)・七ツ石村(壬生町七ツ石)と羽生田村(壬生町羽生田)との村境及び磯村(鹿沼市磯)と棟木宿(鹿沼市楡木)との村境に、それぞれ立てられていたことが記されています。このように、家中村や磯村に立てられていたことからもわかるように、壬生藩の領地は現在の壬生町よりも広く、壬生地区・稲葉地区のほぼ全域と周辺の栃木市・小山市・鹿沼市・都賀町・石橋町の一部にまで広がっていました。歴史民俗資料館には、この他亀和田村(鹿沼市亀和田)と大塚村(栃木市大塚)にあった榜示杭の一部が保管されています。  平成2年3月  壬生町教育委員会
 壬生城本丸址・壬生領榜示杭 壬生町 下都賀郡 栃榜木県