奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇は仏教の力によって政治の乱れや疫病を鏑め、国家の平安を守ろうと考えて、全国に国分寺(金光明四天王護国寺)の建立を命じました。寺には20人の憎が置かれ、鎮護国家の経典である金光明最勝王経が読まれました。 国分寺は国の保護を受けて維持されましたが、律令体制のゆるみと共に衰退し、その多くが古代末から中世初期には廃寺になったと考えられています。 下野国分寺の寺域には、現在いくつかの堂塔跡が地ぶくれとなって残り、往時の様子を今に伝えています。これらの遺構から当時の建物の配置を復元すると、奈良東大寺の様式を基本としていることがわかります。南大門、中門、金堂、講堂は南北一直線上に建てられ、中門から廻る回廊は金堂にとりついていたと考えられます。塔は、回廊の外の東側に建てられました。この塔は基壇の規模から、壮大な七重塔であったと推定されています。 これまでの調査で、寺院地の規模が東西413m、南北457mであったことが確認されています。また、伽藍地を掘立柱塀で囲む時期(II-A期)、北西隅の堀立柱塀の位置を変更した(II-B期)、更に北側の規模を縮小し、掘立柱塀から築地塀に建て替えた時期(III期)の変遷も確認されています。大正10年3月3日国指定 栃木県教育委員会 国分寺町教育委員会 |