氷川八幡社・箕田碑 箕田 鴻巣市 埼玉県
氷川八幡社は、明治6年に箕田の鎮守であった八幡社と同じ村内の氷川社を合祀して現在の社名となった。八幡社は、藤原純友の乱を鎮めた源仕が京都の石清水八幡宮から分霊を勧請(神社の祭り神を分けて別の場所に祭ること)し、氷川社は、六孫王源経基(または源仕とも)が承平元年(931)に勧請したとそれそれ伝えられている。 また、八幡田の地名の由来は、源仕の孫である渡辺綱が神田を八幡社の為に奉納したことによる。 箕田地域は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏発祥の地で、源仕(つこう)、源宛(あたる)、渡辺綱の三代はこの地を拠点として歴史に名を残す活躍をしたのである。  以下略 鴻巣市教育委員会
箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。 源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり指月の撰文、維碩の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778)に刻まれた和文草体の碑文である。
  初めに渡辺綱の辞世
    
世を経ても わけこし草のゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでいる。鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものと思われる。昭和62年3月  鴻巣市教育委員会