上尾宿本陣・脇本陣跡付近 仲町1丁目 上尾市 埼玉県
上尾市の市街の中心は、中山道にそった上尾宿をその源にしていますが、この上尾宿はすでに後北条時代に宿駅として成立したようです。宿駅として整備されたのは、慶長7年(1603)の伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅に、50人50匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割をはたさせました。 また、各宿に本陣・脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は、加賀藩の前田家をはじめ34家ほどでした。上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の家数は、182軒、人口は793人、旅篭屋は、41軒でした。 図は、文化3年(1806)完成の「中山道分間延絵図」に描かれた中山道上尾宿の中心部です。中央の太い道筋が中山道で、画面右が大宮方面、左が桶川方面になります。画面下側中央の鳥居が鍬大神宮(今の氷川鍬神社)、鍬大神宮の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が2軒あります。その右近くには問屋場、さらに右に行くと道をはさんで両側に一里塚があります。鍬大神宮のすぐ右側にもう一軒の脇本陣が描かれています。上尾宿には本陣が1軒(林八郎右衛門)、脇本陣が3軒(本陣の右が白石長左衛門、左が井上五郎右衛門、向いが細井弥一郎)ありました。これらは主として参勤交代の大名たちの宿で、本陣のことは「大名宿」とも呼ぱれました。脇本陣は副本陣のような性格をもち、本陣の代理もしました。