この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら17人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。赤穂事件とは、元禄14年(1701)3月14日におこった殿中刃傷事件とその翌年12月14日夜から15日にかけての吉良邸討ち入り及びその一連の事件のことをいいます。当時の藩主5代綱利は、老中稲葉丹後守からの御預けの命を受けると、大目付仙石伯伯耆守の屋敷に総勢875人の藩士と駕籠を送り引渡しを受けます。このような大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すとともに、上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。細川家は、大藩の威厳と識見をもって優遇し、御預四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。元禄16年(1703)2月4日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹の申渡しを受け、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べました。切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置でした。  平成24年3月  東京都教育委員会
大石良雄外十六人忠烈の跡 高輪1丁目 港区 東京都