常陸国衙跡碑

府中城の土塁
府中城は、正平年間(1346〜1370)大掾詮国により築造されたといわれる。天正18年(1590)12月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城した。
常陸国府の成立は、7世紀後半から8席木初頭である。国府の下に郡衙が置かれ、多珂・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内・信太・茨城・行方・鹿島の11郡を統括していた。常陸国は大国で、国府も大規模なものであった。多くの官人や兵役・雑徭のためにやってくる農民たちでにぎわい、国分寺・国分尼寺・国衙工房などの施設が存在した。 国府の中心である国衙の所在地は、石岡小学校付近にあたる。国衙には、国内の政務に携わる行政官の勤務する役所や、倉庫群など、さまざまな建物があった。昭和48年、石岡小学校の校舎改築に伴い、校庭の中央部付近の発掘調査が実施され、多くの柱穴が発見された。大形のものは径1.5m、深さ2mの規模を持ち、これは国衙の建物跡と考えられている。 常陸国府は、東日本の軍事・経済の拠点として、また、宗教文化の中心としての、重要な役割を担っていた。  昭和60年3月  石岡市教育委員会
常陸国衙跡碑 石岡小学校内 石岡市 茨城県