牛久助郷一揆道標 阿見町指定史蹟  昭和50年5月
宿駅に常備する人馬では輸送に差し支える時、近傍の村々を指定し不足の人馬を提供させる制度が助郷制である。やがて街道の交通量が増えるにつれて負担の増加により宿駅と助郷の村々は共に困窮した。文化元年(1804)牛久宿問屋の麻屋は助郷村々の範囲を拡大する趣旨の新しい助郷指定の願書を幕府に提供した。これに対し、指定を受ける側の信太・河内2郡55ヶ村の農民数千人が10月に立ち上がり牛久助郷一揆を起こした。指導者は小池村(現阿見町小池)の勇七、同村の吉重郎、桂村(現牛久市桂)の兵右衛門の三人であった。農民たちは10月18日に女化原に結集し、20日久野村(現牛久市久野)の和藤治宅、21日牛久宿(現牛久市)の麻屋治左衛門宅、22日阿見村(現阿見町西郷)の権左衛門宅まで次々に打ちこわした後に、諸藩の出兵により解散した。幕府は一揆の関係者を召し捕り、勇七は獄門、吉重郎と兵右衛門は遠島の判決を下したが、三人とも江戸で獄死している。文政6年(1823)さきに打ちこわしを受けた麻屋家がこの道標を建立した。これは方角の他に、一揆の指導者3人の没年月日・戒名・俗名を刻し供養塔を兼ね、永く後世にこの歴史的事実を伝えている。    阿見町教育委員会
助郷一揆供養塔跡・牛久助郷一揆道標 阿見1区南 阿見町稲敷郡