予科練の碑 雄翔園 陸上自衛隊武器学校  青宿 阿見町 稲敷郡
碑文
 予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。特に昭和5年6月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和14年3月ここ霞ヶ浦の湖畔に移った。 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に19の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。 昭和12年8月14日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於いては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無数の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一鑑必殺の体当たりを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に卒業生の八割が散華したのである。 創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か15年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を達つ。  昭和41年5月27日  海軍飛行予科練習生出身生存者一