川越街道は、長禄元年(1547)上杉持豊が川越城と千代田城(江戸城)を築いた際、古河公方に対する防衛道とするため以前からあった古道をつなぎあわせたのが起源であるといわれ、現在のような道筋に整備されたのは江戸時代の寛永年間(1624〜1643)とされる。現在、三芳町内の川越街道は中央分離帯によって上下二車線になっているが、江戸時代の道筋は現在の上り車線にあたる。 藤久保・竹間沢に残る杉や松の並木の起源は寛永期までさかのぼると思われ、延宝6年(1678)の尾張藩鷹場絵図には、既に中野(新座市)から藤久保を経て大井まで松とおぼしき並木が街道の両側に整然と描かれている。昭和40年代頃までは、藤久保交差点の南側に松並木、北側に杉並木が続いていたが、現在では、わずかに残る藤久保交差点北側の松の古木に往時の面影がしのばれる。(中略) 「九里四里(栗より)うまい13里半」という川越いもの特徴を誉めた言葉があるが、川越の大手前(現川越市役所前)から日本橋までの距離は11里34町33間半(46.93km)である。2里(8km)ほど短いようであるが、生産地の三芳と集積地の川越の距離を合わせると13里半となり、見事に距離も一致する。  平成5年3月   埼玉県  三芳町
川越街道松並木 藤久保 三芳町 入間郡 埼玉