武蔵野のうちでも、野火止台地はとくに高燥な土地で、自然の水利には恵まれませんでした。川越城主松平伊豆守信綱は、私領であるこの地方を開発するため、江戸の上水道である玉川上水を完成した功績により、玉川上水から三割の分水許可を得て、承応4年(1655)野火止用水を開削しました。工事は家臣の安松金右衛門に命じて行われ、当初東京都下の小平市小川町から志木市の新河岸川までの約25kmについて開削しましたが、のちに新河岸川に、いろは48の樋を架けて、志木市宗岡の水田地帯をうるおすようになりました。また、寛文3年(1663)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも用水堀を開削して引水しました。幹線水路は、本流を含めて4流あり、末端は樹枝状に分かれています。(中略)
野火止用水の流れは、昭和37・8年頃までは付近の人々の生活水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により、水はしだいに汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子供たちの姿をみることはできなくなってしまいました。そこで昭和49年度から、東京都と埼玉県・新座市で復原・清流復活の事業に着手し、本流と平林寺堀の一部を復元しました。  
平成10年1月30日   埼玉県教育委員会  新座市教育委員会
  野火止用水説明板 新座市役所交差点角