日和山は標高60.4m。山上に延喜式内社である鹿島御児(みこ)神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました。日和山は出航に都合のよい風向きや潮の流れなど、『日和』を見る場所であることから、その名が付いたと伝えられています。
 元禄2年(1689)、松尾芭蕉と曽良が石巻を訪れた時の、曽良旅日記には 「日和山と云へ上ル石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海 今ワタノハト伝 遠嶋尾鮫ノ牧山 眼前也 真野萱原も少見ゆル」 と日和山からの眺望が記されています。  また、「奥の細道』には
 「・・・石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉りたる金花山海上に見渡シ 数百の廼船入江につとひ 人家地をあらそひて、竈のけふり立つ けたり」 と表現されています。 「こかね花咲」とは、万葉集巻第18にある大伴家持の 「天皇の御代栄えむと東なる 陸奥山に金花咲く」 の歌をふまえています。天平産金地は涌谷(わくや)町の式内社黄金山神社の御神体として崇められた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を上った右側に、延享5年(1748年)に雲裡房の門人である堂雨を中心として建立された『雲折く人を休める月見かな』という芭蕉の句碑があります。 また、日和山には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空(折□信夫)などの文人が訪れており、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立されています。

日和山・石巻城址 石巻市