「心細き長沼」跡  合戦谷 成田 石巻市

元禄2年(1689)5月11日、石巻を発った松尾芭蕉とその門人の河合曾良が、この街道(一ノ関街道)を通り、登米の町に止宿した。その道中のありさまを紀行文「奥の細道」の中で「袖のわたり、尾ぶちの牧、まのの萱原などよそめにみて、遥なる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊摩(登米)という所に一宿して、平泉に到る」と述べている。同行した曾良も「随行日記」に「鹿又一里余り渡し有り、飯野川へ。三里に遠し。此の間、山あい長き沼ありーーーー云々」と書き、飯野川と柳津の間に「長い沼」があったと書き止めている。芭蕉らが「心細き長沼」と評した沼は、昔この地、合戦ヶ谷部落の西に横たわっていた「合戦ヶ谷沼」のことである。古地図によると、その沼は東西300m、南北1500mほどの細長い大沼であった。山間を貫き南北に伸びる街道の脇にひっそりとたたずまう大沼の風景は、文字通り「心細い」荒涼たるものであったろう。今は大正末期に行なわれた新北上川開さく工事により河川と変わり、その姿はなく、わずかに北上大堰の上流峡谷の地形に往時の面影をしのぶのみとなった。  昭和60年10月1日  河北地区教育委員会  宮城県文化財保護協会