元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)、江戸を発ち「奥のほそ道」の旅に奥人った芭蕉と門人曽良は、その年の5月11日(陽暦6月27日)、石巻をあとに北上川沿いに北へ向かった。 飯野川から三里余りの山峡に足を踏み入れた旅の一行は、本吉郡南方柳津村(現在の津山町)の南入り□に当たる明耕院黒門を通り、宮下鎮守の森のたもとに辿り着いたと思われる。そこは今「奥のほそ道の碑」の建っている付近である。さらに北へと旅をつづけた一行は、戸伊摩(登米町)に一宿し一関へ向かった。 芭蕉らのたどった当時の一関街道は、明治末期から昭和初期にかけて施工された北上川改修事業の際、水没したり河川敷あるいは埋め立てられて跡かたもなく、桃生・本吉郡境の橋本坂と、柳津まで同行した宿四平へ、今一人と別れた町はずれのみが、わずかに往時の面影を残している。

  明耕院・古道 字宮下 柳津 津山町 登米市