北館大学助利長像 楯山 狩川 庄内町 東田川郡 山形県
荒地を水で満たし庄内に潤いをもたらした武将北館大学助利長公
  現在では日本でも有数の米どころとなった圧内平野も、かつては大部分が不毛の地であり荒地が広がっているだけの土地でした。この荒地を開墾しようと幾度となく川から水を引こうとしまっしたが、川床がこの土地よりも2〜5mも低かったため、当時の技術ではなかなかうまくいかず人々は水不足に苦しんでいました。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で勝利したことにより、この地は最上山形城主出羽の少将最上義光の所領となりました。その家臣であった北館大学助利長公は主の命により慶長6年(1601)に狩川城主として赴任。しかし当地の耕作地はほんのわずかであり、広大な荒地が広がっているだけという現状に愕然としました。「なんとか水を引き田んぼにできないものか、そうすれば人々の暮らしも豊かになるはすだ」と思い、それから必死の思いで打開策を考え近隣の調査を始めました。十年の歳月をかけ、ようやく月山を水源とする立谷沢川がこの地に引水が可能であることを突き止めると、立谷沢川と最上川との合流地点から清川、狩川の山すそ伝いを開削して水を引き数千ヘクタールを潅漑しようという壮大な計画の設計図を作り上げました。 慶長16年(1611)大学公は最上義光公にこの設計書を持って大堰開削を願い出ました。(中略)慶長17年(1612)7月に第一期工事(狩川、添津、三ケ沢)は完成し、堰の長さは約12km、その後3年をかけて開削を進め全体の長さは32kmにびました。荒廃した土地に滔々とが流れ込むのをみて、それまで水不足に苦しんできた人々は歓喜して涙にくれたということです。大堰は北館大学助利長公の労を称え「北楯大堰」と名付けられました。 大堰の完成によって潤った大地は狩川から余目そして酒田の一部までに及び庄内地方は水の豊かな土地に生まれ変わりました。それからは開拓心あふれる人々がこの大堰流域に続々移り住み次から次へと新しい村ができ田畑が広がっていき石高も今までの十倍近くになりました。この堰の水の恩恵を受けた村々は88ヶ村にも及んだといわれています。以下略