合海河岸と金刀比羅神宮 合海 大蔵村 最上郡 山形県
最上川流域に位置し清水に接続して村を形成する合海の集落は、戦国時代に清水氏の河岸拡大整備の一環として慶長年間(1600年頃)に本合海村(現新庄市)の人々を移住させ清水河岸の他に新たな合海河岸を作り仕事に従事させる目的で成立したと伝える。同16年、清水大蔵公が合海町村へ与えた判物によれば、1ヶ月のうち、17日はすべて荷物を合海河岸で荷揚げするよう命じるなど同船着場の振興を図っている。『最上郡史』  清水氏滅亡後の新庄藩の時代には本合海村からの分離開村であることから「合海町本合海村」として一村に扱われたり作之巻、大坪を枝郡とする独立の村とされるなど必ずしも一定ではない。広義の清水河岸は当村域も含むものとされ、天保年間作製の『清水本町絵図』(小屋家蔵)によると、清水と合海の境に庄内様御乗船道(御手船小路)とあるところの突き当たりが合海の船着場で、庄内と山形を結ぶ水陸兼帯の交通の要衝として、庄内、松嶺、矢島等の諸大名の参勤交代の乗降がここで行われた。この御手船小路は当時は俗人の歩行が禁じられており、付近には「御手船蔵」が建ち並び、蔵の直ぐ傍らに最上川が流れていて大いに賑わったと伝える。
清水城の時代に、泉州皆川の荘から来往し清水氏に仕え、主家滅亡後(慶長19年)に土着した皆川家は藩政期を週じて有力な船持ちとなり、代々庄屋をはじめとする村役人や河岸役人を務めている。また、明和〜寛政年間を中心に活躍した船持券荷問屋の御用商人伊藤五郎兵衛(イゲダ屋)はその屋敷地は合海町の東側の半分を占め数十艘の船を持ちこれを数艘ずつに分け「いろは組」と呼んでいた。五郎兵衛が活躍した背景には、中世〜近代を通じ最上川の舟運は唯一の交通機関であり、永松銅山の銅、米、木材、紅花等の川下げを行い、大阪の豪商との取引かあったとされる。五郎兵衛が活躍した盛時には藩に多額の金を用立てする程であった。金刀比罹神社も彼の船が航海中、ある時不慮の海難に遭い危機に陥いたる時、日常信仰する琴平宮が出現し進路を授けられ難を免れたることにより、讃州琴平宮の分神を賜わり当地に祀祭し航海安全の守護神として鎮座されたもである。 以下略  平成6年6月   大蔵村教育委員会