市振関所趾 市振 糸魚川市 新潟県
 江戸時代初期徳川幕府は、重要な政策の一環として全国に53の関所を設け、街道行旅の人々を取り締まった。「市振の関」はその53関中重要23関の一つであった。 親不知子不知の険難の地を東方に控え、北陸道に於ける越中との国境の要衝として寛永(1624〜)年代のはじめ幕府は高田城主松平光長に命じて、ここに関所を設けた。
  関所関所で髪改める   娘十七髪解けん   今に伝えられる。
 この関所の特徴は行旅の人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所から成っていたことである。 その敷地は集落の西方、東西に延びる街道を挟み、東西21間、南北95間で面積は6反6畝15歩であった。その中に「番所」「上役長屋」「足軽長屋」「遠見番所」「井戸」等があり、また西門に近く「馬ノ足洗井戸」があった。 なお、現存する市振小学校校庭内の榎は、関所敷地内にあったもので、昭和49年4月16日「関所榎」として青海町文化財に指定する。  糸魚川市教育委員会