馬市跡(馬市宿元梅屋跡) 椎谷 柏崎市 新潟県
椎谷藩初代藩主の堀直之は幾度となく戦場に臨んだ武勇の誉れ高い武将でした。戦場で馬が活躍した事は当然の事であり、直之は着任早々、良馬の育成と馬匹の改良を奨励し農民に種馬を貸し与え、毎年7月1日に駿馬を買い取っていた。その後、一般にも馬の売買が許されると、次第に盛んになり、椎谷の馬市と呼ばれる様になった。馬市は毎年6月24日から7月2日まで開催され、馬市に集まった馬の数は安政年間の記録では8,000頭とも云われる様になった、椎谷の馬市は安芸の広島・奥州の白河と共に「日本の三大馬市」と言われた。馬市の聞かれた場所は、寛永年間の記録では、水戸(すいど)川から椎谷観音の登りロまでの広さで、道路両側の民家の前には馬を繋ぐ為の柵が作られ、海岸の広い砂浜にも小屋掛して多くの馬が繋がれ、馬の糶場(せりば)も設けられていました。馬市に集まる売り方の博労は青森・秋田・盛岡・福島地方や県内は蒲原方面からで、買い方の博労は長野・栃木・埼玉・富山・石川・静岡・愛知や県内は頚城方面からで、最盛期に集まった博労の数は約10,000人とも言われている。しかし、環境の変化によって馬の需要も次第に滅少し、昭和初期には300頭程しか集まらず、多くの馬小屋が建てられていた広大な海岸の砂浜も波浪に浸食され、ついに椎谷の馬市も幕を閉じた。