一言坂古戦場跡 一言 磐田市 静岡県
この坂を「一言坂」といいます。元亀3年(1572)甲斐国(山梨県)から攻め込んできた武田信玄と遠江国(静岡県西部)の領主であった徳川家康との間に戦いが起こりました。袋井市の三箇野川の戦いで敗れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走しましたが、一言坂で追いつかれ、再び合戦となりました。これが「一言坂の戦い」です。この時に敗走する徳川軍を救ったのが、家康重臣の「本多平八郎忠勝」でした。平八郎は「とんぼ切り」といわれた大槍を振り回しながら一人奮戦し、枯れ草に火をかけ、その煙の中、見事に味方の軍を退却させたと伝えられています。敵の武田軍も、この時の武勇をたたえ、「家康に過ぎたるものがふたつある、唐の頭(兜)に本多平八」と書いた札を磐田市国府台に立てたといわれています。
この道は、古くより「池田近道」とも呼ばれ、多くの旅人に利用されました。それは、東海道が見附宿から中泉代官所の方ヘ南下し、さらに豊田町森下付近から池田の渡船場まで北上する遠回りな道であったため、見附宿からまっすぐ西に出て一言坂を通り、池田渡船場まで斜めに直線に行けるこの道が好まれたのは当然かもしれません。しかし、この道は「かち」(徒歩)の人しか通ることのできない細い道で、馬や荷物は東海道を行くしかありませんでした。「姫街道」の名の由来はいくつかありますが、東海道の通行障害をさけた女性の通行者が多かったためという説が多いようです。姫街道は磐田市見付(西坂町)から愛知県豊川市御油町まで15里14丁(約60.4キロ)ありました。