栗原郡誌によれば、平泉藤原秀衝は非常に歌舞を好み、舞童数十名を選んでしばしば歌曲を舞わせて楽しみとしていた。その中に春風という少年がいて、容貌が閑麗で、その舞も群をぬいて優れていたので衆人からいつも讃えられ秀衡も特に目をかけ賞めていた。他の舞童たちからはこれを妬み、ひそかに人手にかけて殺害しここに埋めたという。春風はいつも紅衣を着用していたことから後の人々が里の名を赤児と称したといわれる。また赤児新山神縁起によれば元慶3年(878)8月17日に鎮守府将軍小野春風の妻が日野丹波という修験者の新山五神の加護により一子春若丸を恵まれたという。しかし不運にもその子が病死したので悲しんで墓としたことを記している。考古学的には葺石を上面に敷き詰めた経塚で、時代は平安末期から鎌倉初期といわれている。 昭和61年10月 金成町教育委員会
赤児塚 赤児新山前  金成 栗原市 宮城県