蛇口伴蔵用水路の由来
八戸藩士の蛇口伴蔵(山水と称す)は、文化7年(1810)の生まれ。伴蔵は経済の基盤は水田農業にあると考え、下洗より上水して大杉平・糠塚に引き、長苗代にも匹敵する二千石の開田を計画した。「商人侍」とさげすまれながら黙々と資金を準備して、安政6年(1859)秋に着工した。山腹に45kmの水路を掘り、泥障作から500mのトンネルを掘り抜いて鴨平に出、谷間を利用して白山堰につなぐ難工事は万延元年(1860)8月に完成した。ところが、この辺は火山灰の地質であり、また、水路の勾配が緩いために漏水が甚だしく間もなく使用不可能になってしまった。伴蔵は失敗にめげず、次の階上岳土水事業に取りかかる。水漏れしやすい土質のため工事が難航。蓄積した巨万の富も底をつき事業をついに断念する。慶応2年(1866)、明治維新を間近に56才でこの世を去った。  平成21年6月  八戸市教育委員会
蛇口山水発蒙碑 泥障作深渡 南郷区 八戸市 青森県